
『恐怖分子 デジタルリマスター』公式サイト
8.21金
Bunkamura ル・シネマ 渋谷宮下
ほか全国公開
『恐怖分子 デジタルリマスター』
1986年|香港・台湾|カラー|109分
監督:エドワード・ヤン/脚本:エドワード・ヤン、シャオ・イエー/製作:リン・トンフェイ/撮影:チャン・ツァン/編集:リャオ・チンソン/録音:ドゥ・ドゥーチー/音楽:ウォン・シャオリャン/主題曲演唱:ツァイ・チン/出演:コラ・ミャオ、リー・リーチュン、チン・シーチェ、クー・パオミンほか
© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
提供:JAIHO
配給:TWIN
配給宣伝:グッチーズ・フリースクール

TRAILER
予告編
INTRODUCTION
イントロダクション
1986年に発表された『恐怖分子』は、エドワード・ヤン長編第3作にして、台湾ニューシネマの到達点のひとつである。台北という大都市を舞台に、偶然に交錯する複数の人物たちの運命を、鋭利な構成と冷徹な視線で描き出した本作は、現代都市に生きる人間の孤独と不安を、サスペンスの形式を借りて極限まで研ぎ澄ませた傑作として高く評価されてきた。
『恐怖分子』の恐ろしさは、暴力そのものよりも、誰かの何気ない行為が、別の誰かの人生を思いがけず傷つけてしまう都市の構造にある。現実と虚構、観察する者とされる者、書くことと生きることの境界はゆらぎ、観客は次第に、この都市全体が見えない緊張の網の目でできていることに気づかされる。つながりながら孤立する現代社会を生きる私たちにとって、本作はますます切実な同時代映画として迫ってくる。都会に暮らす人々の不条理や孤独を浮き彫りにした群像劇の傑作である。

SYNOPSIS
あらすじ
80年代半ばの台北。街で起きた銃撃事件を偶然撮影した若い写真家は、その現場から逃げ出した少女の姿をカメラに収める。一方、医師の夫と暮らす女性作家は、新作の執筆に行き詰まり、夫とのあいだにも微かな亀裂を抱えていた。出版社に勤める元恋人、事件を追う刑事、街を漂う若者たち——
無関係に見える人々の人生は、あるいたずら電話をきっかけに、思いもよらないかたちで少しずつ結びついていく。誰かの孤独、誰かの嘘、誰かの欲望。ささいな選択や偶然のすれ違いは、やがてそれぞれの関係に見えないひずみを生み、日常の奥に潜んでいた不穏を浮かび上がらせていく。交わるはずのな かった人々の運命は、静かに、しかし確実に絡み合い、やがて取り返しのつかない地点へと向かっていく。

エドワード・ヤン/プロフィール
1947年11月6日に上海で生まれ、1949年2月に家族と共に台北に移住。1953年から小学校に通いはじめた。1959年に、建国中学校の夜間クラスに入学し、翌1960年に念願の日中クラスへの編入に合格。夜間クラス通いの同級生茅武が別れた彼女を殺害したことで、当時の一大ニュースとなった。茅武と共通する友人を多く持つエドワード・ヤン少年にとっては、ショッキングな事件であった。自分も茅武になる可能性があったと述懐している。この実体験は、のちに傑作『牯嶺街少年殺人事件』で鮮明に描かれた。
1962年に建国中学校を卒業し、建国高校の3年間を経て、1965年に国立交通大学の制御工学専攻に入学。1969年に学士号を取得した後、アメリカのフロリダ大学に進学。1974年に電子工学の修士号を取得した。さらに映画を学ぶべくUSC(南カリフォルニア大学)に通うが、当時のハリウッドに範を置いた教育方針に反発し、ほどなくして退学する。以後はシアトルにあるワシントン大学で、コンピュータ関係の仕事に約7年間従事した。さらに、ハーバード大学の建築コースなどのオファーを受けたものの、映画の夢を捨てきれず辞退。1981年に、友人の誘いで台湾に戻り、ふたたび映画を志す。1969年から1981年まで、エドワード・ヤンは約13年間アメリカの各地で暮らしていた。この経験も、1983年の長編映画デビュー作『海辺の一日』で、女性ピアニストの譚蔚青によって代弁される。
『海辺の一日』以前にも、エドワード・ヤンは映画制作にすでに携わっていた。1980年に、映画『1905年的冬天』の脚本を執筆した。それから女優のシルヴィア・チャン(張艾嘉)と知り合い、その誘いを受け、テレビ映画『十一個女人』(1981年)の一話『浮萍』(浮草)を監督することになった。1982年に、三人の新人監督とともに、台湾ニューシネマの嚆矢となるオムニバス作品『光陰的故事』で、映画監督デビューを果たした。
そのほかに、台湾芸術学院(現在は国立台北芸術大学)の演劇コースで若手俳優の育成に力を入れた。その学生の多くは、『牯嶺街少年殺人事件』のスタッフや俳優として活躍していた。また、演劇にも興味を示した。1992年に舞台劇『如果』、1993年に舞台劇『成長季節』をそれぞれ監督し、同じく台湾芸術学院の学生に主演を務めさせた。二つの舞台劇が『エドワード・ヤンの恋愛時代』の先駆けとなった。1997年に舞台劇『九哥与老七』を監督。2000年に『ヤンヤン 夏の想い出』を発表し、カンヌ国際映画祭の監督賞を受賞した。同じ年に大腸癌が検出され、9月には男の子を授かった。その後、アニメーション制作に乗り出し、ジャッキー・チェンをモデルにするアニメーション『追風』の企画を立てたが、完成に至らなかった。癌と闘病しながら、アニメーション『小朋友』の絵コンテの執筆など、創作活動を最後まで続けた。2007年6月29日に、惜しまれつつも癌で亡くなった。59歳だった。
STAFF
スタッフ
脚本/シャオ・イエー(小野)
本名李遠、作家、脚本家。1951年台北市生まれ。
国立台湾師範大学生物学コースを卒業。1973年から文学作品を執筆しはじめ、作品集『蛹的生』『試管蜘蛛』などを出版した。1979年にアメリカのニューヨーク州立大学バッファロー校に留学するが、一年後に退学して台湾に戻る。当時映画の脚本をいくつか完成させたが、いずれも撮影段階に入らなかった。1981年に中央電影会社に入社し、企画部門のリーダーに抜擢された。同じ時期に入社したウー・ニェンツェンとともに、脚本執筆のほか、『光陰的故事』『坊やの人形』をはじめとする台湾ニューシネマの映画を数多く企画した。
編集/リャオ・チンソン(廖慶松)
映画編集技師、監督。1950年台北市生まれ。
1973年に第一期中央電影会社の映画技術者育成クラスに合格し、翌年に編集アシスタントとして中央電影会社に入社。国立台北芸術大学、国立台湾芸術大学などで教鞭を執る時期もあった。エドワード・ヤン監督の『海辺の一日』に続き、『恐怖分子』の編集を担当。『恐怖分子』を編集する際に、『恋恋風塵』の編集も並行して行っていた。題材と映像スタイルが全く異なる二つの映画の編集に悩まされた末、エドワード・ヤンの指示を無視して、『恐怖分子』の結末の編集を独自の判断で敢行した。「時にはショットを4321や4231などの新しい配置と組合せに調整した」と本人も認めてい る。
録音/ドゥ・ドゥーチー(杜篤之)
映画音響技師。1955年台北市生まれ。
1972年に高等学校を卒業し、中央電影会社の録音部門に入社。1973年の第一期中央電影会社の映画技術者育成クラスにも参加。録音アシスタントに6年間従事したのち、エドワード・ヤンの脚本で制作された『1905年的冬天』で、録音技師に昇格。台湾映画最高賞金馬賞の音響部門で13回受賞したという記録を持つ。2001年に、第54回カンヌ国際映画祭でフランス映画高等技術委員会賞を受賞。2004年に、フランスのナント三大陸映画祭で回顧展を開く。エドワード・ヤン全作品に参加した唯一のスタッフである。
主題曲演唱/ツァイ・チン(蔡琴)
歌手、俳優。1957年高雄市生まれ。
1979年に歌手としてデビュー、シングル曲『恰似你的温柔』、アルバム『出塞曲』などを発表。1981年にアルバム『你的眼神』を発売、同名の曲はその代表作になっている。1982年に、友人たちとレコード会社から独立する、台湾初の音楽団体「天水楽集」を創立し、アルバム『一千個春天』を発表。1984年、エドワード・ヤン映画『台北ストーリー』の主演を務める。1985年にエドワード・ヤンと入籍するが、1995年に離婚。1986年にアルバム『人生就是戯』を発表。収録される『請假裝你會捨不得我』(私と別れたくないふりをして)は、『恐怖分子』の主題歌でもある。また、エドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』にも特別出演。
『海辺の一日 4Kレストア』公式サイト
STAFF|スタッフ
脚本 ウー・ニェンツェン(呉念真)
1952年台北県瑞芳鎮生まれ。
1967年基隆中学校に進学。卒業後に家計のため、薬局でアルバイトしながら高校に通う。1976年に輔仁大学會計コースの夜間クラスに入学し、小説の執筆を始める。長らく台北市療養院附属図書館で勤務するが、1980年に、中央電影公司社長の明驥の誘いで、中央電影公司の制作企画部に転職。台湾映画最高賞金馬賞の最優秀脚本賞を5回受賞。作品集『台湾念真情』などを出版。父親の半生を描く作品『多桑』(1994年)で映画監督デビュー。そのほか、舞台劇『人間条件』シリーズを監督、『ヤ ンヤン 夏の想い出』にNJ役で出演。
撮影 クリストファー・ドイル
1952年オーストラリアのシドニー生まれ。
18歳から船員として世界各地を放浪。シドニー大学文学部、香港中文大学新亜書院、メリーランド大学美術コースに在籍したことがある。1978年台湾に渡り、テレビ番組の撮影と編集を担当。1983年に、エドワード・ヤンの強い推薦で、『海辺の一日』の撮影に抜擢。1990年に、ウォン・カーウァイ『欲望の翼』の撮影を担当して以来、ウォン・カーウァイ監督の作品に長期にわたり携わる。
『海辺の一日』を撮影する際に、照明のことを全く知らないクリストファー・ドイルは、しばしばエドワード・ヤンの不興を買う。シルヴィア・チャン(張艾嘉、林佳莉役)の回想によると、肝心な海辺のシークエンスの撮影を巡って、エドワード・ヤンと揉めて現場から去っていったという逸話も残っている。
撮影 チャン・ホイゴン(張恵恭)
1943年生まれ。1972年の台湾語映画『可憐的酒家女』で映画撮影を初担当。その後、撮影アシスタントとして中央電影会社に入社し、1977年に撮影技師に昇格。1992年までに、30本以上の映画の撮影を担当し、多くの監督の下で仕事をしてきた。1992年に、中央電影会社の人事異動でテレビ部門に配属となり、以降はドキュメンタリーの撮影に専念する。2002年に定年退職。
『海辺の一日』の撮影に関して、エドワード・ヤンは新人クリストファー・ドイルの起用を強く希望するが、中央電影会社の上層部は年長のチャン・ホイゴンを指名。争いの結果、二人とも撮影に参加することとなった。クリストファー・ドイルがエドワード・ヤンと喧嘩するたびに、チャン・ホイゴンに撮影が任せられたという。その貢献が認められたか、エドワード・ヤン本人の誘いで、『牯嶺街少年殺人事件』の撮影を担当。
CAST|キャスト

コラ・ミャオ(繆騫人)
俳優。1958年上海市生まれ。
1961年に、家族と共に香港に移住し、インターナショナルスクールKing George V Schoolに通う。1971年から1975年までスイスに留学。1976年に「ミス香港」に参加し、テレビ局の香港無線電視台(TVB)と契約をする。テレビドラマに出演するのち、1980年代に映画への出演に専念するようになる。1991年に引退。
主な出演作品は、
『獣たちの熱い夜 ある帰還兵の記録』(アン・ホイ、1981年)
『望郷』(アン・ホイ、1982年)
『傾城之恋』(アン・ホイ、1984年)
『最愛』(シルヴィア・チャン、1986年)

リー・リーチュン(李立群)
映画・舞台劇俳優。1952年台湾新竹県生まれ。
中国海事商業専科学校を卒業後、一時期に船員として働く。1978年に、中華電視公司の俳優育成クラスへの参加をきっかけに、中華電視公司の契約俳優となり、テレビドラマに出演。台湾ニューシネマの作品『光陰的故事』『搭錯車』などにも参加した。1984年に、スタン・ライ(頼声川)と李国修とともに、劇団「表演工作坊」を創立。1986年に劇団の代表作『暗恋桃花源』に、1991年に舞台劇『台湾怪譚』に出演など、演劇活動を長く続けた。1995年に「表演工作坊」から離れた。その後、中国大陸に拠点を移し、主にテレビドラマの主演を務める。リー・リーチュンの『恐怖分子』への出演は、同時期の演劇活動と重なる ため、作中での演技は、舞台演劇的な側面が見て取れる。しかし、エドワード・ヤンはその演劇的な身振りに対して、やや距離を置いていたようである。

チン・シーチェ(金士傑)
映画・舞台劇俳優、舞台劇監督。1951年台湾屏東県生まれ。
元々獣医だったが、演劇の夢を捨てきれず台北で演劇活動を行う。1978年に、舞台劇の脚本『演出』を完成。1980年に、演出家の呉静吉などと一緒に、台湾初のアマチュア劇団「蘭陵劇坊」を創立し、自らが団長を務める。1986年に、劇団「表演工作坊」の『暗恋桃花源』に出演。1980年代から、「蘭陵劇坊」、「表演工作坊」と「果陀劇場」など、さまざまな劇団の舞台劇に出演し、台湾の演劇を牽引する存在となった。「台湾現代演劇の先駆者」と言われている。一時期に国立台北芸術大学で教鞭を執った。

クー・パオミン(顧宝明)
映画・舞台劇俳優。1950年台北市生まれ。
1980年映画『小醜』に出演。1992年に、映画版『暗恋桃花源』で金馬賞の最優秀助演男優賞を受賞。1996年に、エドワード・ヤンの『カップルズ』に出演。そのほか、劇団の舞台劇と、『倚天屠龍記』(頼水清、1994年)をはじめとする人気テレビドラマにも多く出演。脇役がほとんどだが、演劇監督スタン・ライから、コメディの演技がきわめて優れると評価されている。2022年に死去。





